20世紀最後の死刑囚 勝田清孝連続殺人事件

2000年11月30日早朝20世紀最後の死刑が執行された。

死刑囚の名は【勝田清孝】


前代未聞の大量連続殺人犯である。

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勝田清孝連続殺人事件<事件概要>

1982年10月27日愛知県名古屋市で警察官が襲撃され拳銃を強奪される事件が発生した。

拳銃を強奪される事件から四日後の1982年10月31日。

勝田清孝は、岐阜県養老サービスエリアで強引にヒッチハイクした運転手の溶接工(27歳)を奪った拳銃で現金7万円を強奪し射殺。

さらにその直後、ガソリンスタンドに強盗目的で襲撃するも失敗。

しかしその時ガソリンスタンド店員一人に銃口向け4発発砲。

1名が重傷となった。

それから1か月後の1982年11月28日

京都府山科のスーパーに押し入り152万円を強奪し逃走。

さらに翌年の1983年1月31日名古屋市内の銀行で現金を下ろした客を待ち伏せし、同一の銃で威嚇し現金を奪おうとするも失敗。

その銀行での強盗を一部始終を見ていた目撃者の通報で勝田清孝(34歳)は逮捕された。

警察が勝田清孝の取り調べを進めると驚くべき事実が明らかとなった。

勝田清孝連続殺人事件<取り調べで発覚した驚くべき事実>

勝田はこの事件以外にも 1972年から82年までの10年間に複数人を殺害していたことを自供。

合計8人もの尊い命が奪われていたという事実が明らかになった。

勝田清孝は意外にも素直に犯行を自供したと言う。

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勝田清孝連続殺人事件<事件詳細>

1948年8月29日京都府木津町(現・木津川)生まれ
京都で生まれ高校在学中にひったくり事件で少年院に入った勝田清孝。

その後前歴を隠し、消防職員採用試験に合格。

当時の仕事ぶりは非常にマジメで仕事の面では負けず嫌い。

同僚たちの評価は高かったと言う。

救助訓練では絶えず署の選手にもなり、全国競技大会では2年連続で入賞。

しかし私生活は金遣いが荒く金に困った勝田清孝は借金返済のため空き巣を始める。

1972年9月13日 京都市のアパートに空き巣目的で侵入。

その際、住人であったクラブホステス(24歳)を絞殺。

水商売の女性はバックに大金が入っていることが多いと気づいた勝田は、クラブホステスを狙いひったくりを繰り返すようになる

1975年7月6日 大阪府吹田市でクラブママ(35歳)を絞殺。
1976年3月5日 愛知県名古屋市でクラブホステス(32歳)を絞殺。

さらに翌年の
1977年6月30日愛知県名古屋市で遊戯店店員(28歳)を絞殺。
1977年8月12日愛知県名古屋市で美容師(33歳)を絞殺。

その後も勝田清孝の凶行は続く。

1977年11月20日奈良市内の鉄砲店で散弾銃を強奪。

1977年12月13日勝田清孝は奪った銃で兵庫県神戸市で労金職員の男性を射殺。
1980年7月31日愛知県名古屋市でスーパー店長の男性(35歳)を射殺。

前述で紹介した1982年10月31日 岐阜県で無理やりヒッチハイクをした溶接工(27歳)を射殺を含め勝田清孝は計8人をも殺害していたのだ。

しかし勝田清孝の犯行はこれで終わってはいなかった。

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さらに14人を殺害したと自供する勝田清孝

警察の取り調べの中で勝田清孝はさらに14人を殺害したと自供した。

しかしこの自供について確証がなかったため立件することはできず、真相は闇の中となってしまった。

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テレビに出演していた勝田清孝

1976年から1982年にかけて放送されていた「夫婦でドンピシャ」という一般の夫婦が参加するクイズ番組があった。

勝田清孝はその放送の6日前に女性を殺害して出演していた。

当時、勝田清孝の妻や愛人は殺害の全貌を知らずにいた。
その妻とは逮捕された際に離婚している。

もはや勝田清孝のなかでは、殺人ということは手元の金銭がなくなった時に銀行にお金をおろしにいくのと変わりないように思われる。

まさにシリアルキラーそのものだ。

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勝田清孝連続殺人事件<裁判>

1986年一審で死刑判決、1994年最高裁で死刑が確定。

2000年11月30日 勝田清孝は死刑台に上がった。
勝田清孝の死刑執行は20世紀最後の死刑執行でもあった。

そしてこれとともに猟奇的な昭和の大量殺人事件、シリアルキラー勝田清孝の勝田清孝連続殺人事件は幕を閉じた。

金銭目的で人間とは思えないような猟奇的犯罪を繰り返した勝田清孝。

勝田清孝が犯行を繰り返した1970年代は高速道路の整備やマイカーブームの時代。

勝田清孝も免許を取得し、関東から東海にかけ広域に及んだ犯行と、今のような情報社会ではなく、カメラの整備などもされていなかったことが、繰り返し大量殺人のような犯行ができたとも言える。

戦後最悪の大量殺人事件と言われる相模原障害者施設殺傷事件は19人であったが、もし勝田清孝の自供通り計22人の殺害が全て立証されると勝田清孝連続殺人事件が戦後最悪の大量殺人事件となっていた。

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