1977年に起きた、毒物混入の事件。文字通り日本を震撼させた「青酸コーラ無差別殺人事件」
この事件は、ただの毒物混入事件ではなく、模倣的な事件を生み出してしまった最初の事件。
無差別殺人事件の謎に迫る。
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青酸コーラ無差別殺人事件<第一の事件>
1977年(昭和52年)1月4日午前0時、新幹線ビュッフェで働く従業員の男女6人が帰り道にある電話ボックスの前を通りかかる。
その時、コカコーラの瓶が1本、床に転がっていたのを発見。
最年少であった高校生の檜垣明(16歳)がコーラを持ち帰る。
1月4日午前0時15分ころ、住み込みの寮に着いた6人は、入浴後、午前1時ごろから2階の娯楽室に数人が集まってビールで乾杯した。
檜垣明は1杯のビールを飲み終わったあと、先ほど渡されたコーラを取りに行き、栓を抜き、飲もうとした。
しかし檜垣明は味の異変に気づき口に含んだコーラを吐き出し、すぐさま水道の水で口をすすいだが、コーラを口にした5分後、倒れた。
両こぶしを握ったまま、うつ伏せに倒れ、すでに意識不明に陥っていた。
仲間はすぐに救急車を呼んだが、檜垣は午前7時半過ぎに死亡。
検死解剖の結果、青酸中毒死。体全体は特有のピンク色に染まった症状が見られた。あきらかなコーラの飲用によるものと関係者は理解できた。
警察は事件性があると判断。
コーラびんを警視庁科学検査所に送り毒物鑑定を行った。
その結果、びんからは青酸反応が検出された。
青酸コーラ無差別殺人事件<第二の事件>
翌日の1月5日午前8時15分頃、事件のあった電話ボックスから、約600m北へ行った歩道上に、作業服姿の中年男性の菅原博(46歳)が倒れているのを、会社員が発見。
近くの病院に運ばれたが、すでに死亡していた。
青酸コーラ無差別殺人事件<第三の事件>
警察はまだ他にも毒入りコーラがばらまかれている可能性があるとみて、近隣署の警官を増員して一帯を捜索した。
1月5日午後0時50分ころ、最初のコーラを発見した電話ボックスから約600mの地点の赤電話の棚にコカコーラが放置されているのを品川署員が発見。
鑑識の結果、中から今まで発見されたモノより、かなり強い青酸反応を検出した。
毒物は青酸ナトリウムであった。
付近の住民から目撃証言なども聞き取りをしたが、決定的な証拠が見つからず、捜査は暗礁に乗り上げ15年後の1992年(平成4年)1月4日、 時効成立。
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青酸コーラ無差別殺人事件<まとめ>
この事件が世間に与えた影響は大きく、コカコーラ社は製造されたコーラの販売にも注意を払うことになり、コカ・コーラの自動販売機もこの事件をきっかけに現在の自動販売機のカタチに様変わりしていった。
そしてこの事件は「愉快犯」という言葉を生んだと同時にたくさんの連続事件が発生してしまった。
「大阪青酸コーラ事件」「青酸チョコレート事件」「青酸男ハイジャック事件」すべての事件は同年に発生している。犯人が捕まってないので、憶測の範疇を超えることはできないが、同一人物が一人で起こした事件なのか?
または、模倣犯の起こした事件なのかは今となっては謎だ。