玄倉川水難事故で生き残った少女のメッセージ

1999年8月13日から神奈川県山北町を流れる玄倉川の中州でキャンプをしていた18名が大雨による増水で流され、5名が救助され13名が死亡するという史上最悪ともいうべき水難事故が発生。

この玄倉川水難事故は20年も経った今でもシーズンが近づくと話題に挙がる。

その理由は、水難事故というより限りなく殺人に近い事故であるからだ。

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玄倉川水難事故<事故詳細>

キャンプ地としてキャンパーの間で人気だった神奈川県山北町の玄倉川。

玄倉川水難事故が発生した場所は車での乗り入れは当時から禁止されていたが、今回の事故の被災者のみならず多くのキャンパーたちが車で乗り入れをしていた。

キャンプサイトとしては景観もよく自然を満喫できることから人気スポットであったが大雨が降った際には完全に水没することから禁止されていたのだ。

まさに1999年8月13日の気象は悪天候であった。

神奈川県全土には大雨洪水警報が発令。

玄倉川上流にある玄倉ダムという発電用ダムがあるのだが、大雨が降るとすぐに満水になりダムの水を放流しなければならず、この日も例外ではなかった。

13日19時45分ごろ玄倉ダムからは放流の注意を促すサイレン。

13日19時50分ごろ 玄倉ダムの職員がキャンプをしていた人たちに直接注意を促し、大半のグループは待避した。

しかし被災者となったグループだけは、この注意喚起に応じなかった。

13日20時20分 玄倉ダム放流開始。

※『人がいたのにダムを放流する事自体が問題では?』という意見が散見されるが、大雨時の満水時にそのまま貯水しているとダムの決壊が起こりさらに大きな被害が想定されることから放流は避けることができなかった。

13日21時10分ごろ ダム職員と地元警察が再度警告。

被災者グループの中から3名が中州から岸へ退避。

この選択が運命の分かれ道だった。

13日22時30分ごろ 地元警察が再度警告。

被災者グループは鼻でせせら笑って「殴るぞ」「失せろ」等と言って応じる気配をまったくみせなかった。

それどころか、2人いたと言われるリーダー格が

  • 「放っておいて。楽しんでんだよ」
  • 「地元の人は臆病」
  • 「見張りを置くから平気」
  • 「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」

と暴慢な態度をとり、回避できた危険な状況をまったく気にもとがめない様子だった。

翌朝8月14日5時35分 大雨洪水警報が発令。

14日6時ごろ 岸に退避したキャンプ客が中州のテントへ呼びかけるが無反応。ダムの職員もサイレンを鳴動。

14日7時50頃 テントの中で寝ていた被災者たちがテントの中に濁流が流れ込んできたことで事の重大さに気づきグループはテントの外に出た。

川の流れも強くなっていき、水嵩も増し川幅も広がりグループがいる位置から両岸までその頃には遠く、どちらの岸にも戻れなくなっていた。

14日8時頃追い打ちをかけるように玄倉ダムを本格的に放流開始。

警察が巡回し消防へ119番通報。

それから30分経過した8時30分頃には水位はおよそ1mに達し中州は完全に水没。

計3回の忠告を無視し中州に取り残され18人は河床の一番高い部分にて濁流に耐えていた。

強い風が救助の妨げとなりヘリを出すことを断念。

14日9時07分被災者グループを救助すべく400名以上のレスキュー隊員が到着。

徒歩で救助を試みるも激流のためこれも断念。

その間も被災者グループは迷惑行為をかけていたにも関わらず、暴慢な態度を変えなかった。

  • 「ヘリを出せ」
  • 「早く助けろ」
  • 「お前らの仕事だろ」

と暴言を吐き続ける。

14日10時30分から対岸に向けてランチャータイプの救助用ロープの発射を試みるこれも水圧の影響で固定することができなかった。

1999年8月14日11時38分 水深が2m近くに。

グループの中にいた1歳の男の子を岸に向って放り投げられた。

岸のそばに流れ着いたところを救出の手助けに来ていたキャンプ客の決死の行動により救われた。

残りの被災者グループ一行は救助隊、地元警察、地元消防隊、関係職員、多くの人が見ている前で17人は力尽き、濁流に流されてしまった。

翌日、対岸に流れ着いて夜を過ごした31歳男性と5歳の娘、31歳男性と29歳男性の兄弟、計大人3名、子供1名の4名を発見。

玄倉川水難事故<亡くなった被害状況>

廃棄物処理業者・株式会社「富士繁」社員、子供6人を含むその家族と、社員の婚約者・女友達を含む18人のうち、

「富士繁」社員5名と妻2名、1歳から9歳の子供4名、社員が連れてきた女性2名の13名の遺体が次々と発見された。

事故発生から2週間後に最後まで発見されなかった幼児の遺体が発見された。

この遺体発見を最後に玄倉川水難事故は収束をみた。

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玄倉川水難事故<事故現場の今>

玄倉川へ行く入口には、玄倉川水難事故事故を受け門が出来て進入禁止となっている。


出典:ameblo.jp/orochi-x/entry-10985485563.html

この玄倉川水難事故は毎年語られ続けることの影響か、心霊スポットとして夏には多くの若者夜な夜な足を踏み入れている。
※危険なのでマネをしてはいけない

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玄倉川水難事故<事故の余波>

この玄倉川水難事故は、ほぼ生放送に近いかたちで全国に報道され、多くの人が被災者グループの救助に固唾をのんだ。

ただ世間的には再三の忠告にも関わらず、暴慢な態度で応じなったことや救助に協力してくれたレスキュー隊に対して暴言を吐くなどの悪態。

さらには難を逃れ救助された生存者もレスキュー隊に対し、暴言を吐いているところも放送され、4人の生存者に対し地元住人たちが差し入れたおにぎりも「まずい!」と言って叩きつけた。

さらには「テントを回収してたら返して」とレスキュー隊に告げたという問題外の発言。

このようなことから多くの人から被災者グループは同情されることもなく『自業自得』という言葉が飛び交い20年以上経過した現在でも語り継がれる水難事故となってしまった。

ただ子どもに関しては同情する声も多く、大人を信じともに行動したことで最悪の結末を迎えてしまうことになったのは残念でならない。

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玄倉川水難事故<生き残った少女のメッセージ>

激しい流れになすすべのない救助隊の目の前で、大人も子供も次々に流されていった中で生き残った5歳の少女がブログで心境を執筆。

たまにね私、ふとあの時の事を思い出すんだ。幼稚園の頃の事故あれは一体なんだったの?どうして私の家族なの? 小さい頃私がママを殺したんだ。私さえ居なければママは生きていたんだ。 パパがね私を抱いててママがパパに助けを求めていたんだ。 手を伸ばしてね一生懸命流されないようにしてたんだ。けどねパパまで水に連れていかれそうで怖かったんだ。だからねパパやめて!って言ったんだ。 そしたらパパがママの手を離したの。 そしたらママ水と一緒にいなくなっちゃたの。これって私のせいだよね。 ごめんね本当に…。ママに逢いたいです。小さい頃もずっとママが欲しかった。皆にはママがいて私には居なくて悲しかった。 今でもママが戻ってきてほしいと思っている。あと優香にも戻ってきてほしいんだ。私には妹がいたんだよ。 ママがいなくなっても明るい朝香でいてねって色んな人に言われた。 そう簡単に言うなと思ったよ。けど私なりに頑張ってきた。毎日明るく生きてる… ーーー

少女がブログ上で書いたとされる日記。(現在ブログは閉鎖されている)

少女がその時の心境や辛かった幼少期時代をつづった内容なのだが、救助してくれた人々への感謝の気持ちが綴られていないという理由で炎上。

しかし少女は当時、園児であり、あくまで被害者である。

辛く悲しい過去や、そして世間からの厳しい批判などを一手に背負ってしまっているとも言え、やはり責めるべきはこの少女ではなく、危険な状況に晒させた親である。

ただ、少女はこのことも背負わなければならない。