池袋通り魔事件 犯人の信じられない本性

池袋通り魔事件<事件概要>

1999年9月8日午前11時40分頃。

東京都豊島区東池袋の東急ハンズ前で、上がってくるエスカレーターの前に包丁と金槌を持って立ちはだかり、いきなり「ムカついた、ぶっ殺す!」と叫び、エスカレーターで上がってくる人を手当たり次第に無差別に刺した。

そのまま男はエスカレーターを降りながら すれ違う高校生を刺していった。

白昼の池袋で2名を殺害6名を負傷させたのは殺人鬼 造田博

亡くなったのは最初に刺された老夫婦の妻(66歳)。

そして、それから途中で刺された若い夫婦の妻(29歳)。

29歳の刺された妻は「私このまま死んじゃうのかな?」と一言残し、そのまま亡くなった。

造田博が池袋通り魔殺人事件を起こすきっかけは何だったのだろうか。

スポンサーリンク



池袋通り魔事件<造田博の動機>

直接的なきっかけはハッキリしていた。

造田博は当時新聞配達のアルバイトの仕事をしており、
事件が起こる少し前に朝、寝坊し遅刻をしてしまった。

そのことから、携帯電話を持たされることがあった。

その携帯電話持たされた深夜。

造田博が持つ携帯電話に無言電話がかかってくるようになったのだ。

この無言電話がきっかけとなった。

造田博が持つ携帯電話の番号を知っているのは新聞配達の仲間だけ。

つまり無言電話はその仲間のうちの誰か。

このイタズラ電話に造田博は激怒。

「わし以外のまともな人が、ボケナス殺してるけえのお。わしもボケナスのアホ、全部殺すけえのお。アホ。今すぐ永遠じごぐじゃけえのお。」

配達所に書き置きを残し、壁に貼り付けて造田博死刑囚はそのまま失踪し、事件が

「誰でもいいから殺したかった・・・」

スポンサーリンク



池袋通り魔事件<裁判と犯人の信じられない本性>

2002年1月18日、東京地方裁判所で造田博は死刑判決を言い渡された。

造田博は死刑が求刑された直後に書いた直筆の手紙を書いている。

そこには反省の色など微塵も感じさせない造田博死刑囚の本性が映し出されていた。

池袋通り魔事件<造田博死刑囚の手紙>

私は求刑で死刑になりましたけど、今の日本や世界の社会の状況で私が死刑なんてないと思います。
警察官が平気で私に死刑の休憩出すのだったら他の人もみんなカンカンになっていると思い
ます。私は控訴上告しようと思っています。

その後、
2003年9月29日、東京高等裁判所で控訴棄却。
2007年4月19日、最高裁判所で上告を棄却。

造田博の死刑が確定した。

スポンサーリンク



裁判で死刑が求刑されたあとの造田博死刑囚はどのようにしてしているのか?

それについては拘置所・衛生夫が造田博死刑囚の様子について語ったことがある。

「造田は何もしゃべらず、下を向いて一日を過ごしています。〝お茶要ります か?〟と聞いても、やや間を置いて手でバッテンの合図をするくらいで、私は彼の 声を一度も聞いたことがありません。また、汚くてどうしようもない人間で、シャ ツも洗濯しないから、白いシャツが真っ黄色になってしまっているんです。トイレ も絶対に流さないので、房は臭くて仕方がない。一言で言えば〝廃人〟同然の人物 で、扱いにくさでは、フロアで屈指でした」

職場での嫌がらせがきっかけで無差別に人を殺害する。

この行動自体も理解できないが、死刑求刑後であっても自らの罪を認めないことに憤りを感じる。

造田博死刑囚は拘置所で親族や友人などに手紙を送っているが、その手紙の文字はあの幼女連続誘拐殺の宮崎勤とよく似た、少しずつ細くなっていく小さな文字だったという。

広告1

スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメントの入力は終了しました。