【松山ホステス殺害事件】テレビで語られない福田和子の壮絶な過去と残された長男の現在

「ママ、用事があって遠くに行くけん、しばらく会えんけんね」

子どもたちにそう語った夜から14年11カ月(5459日間)にもわたり「7つの顔持つ」と言われ何度も整形手術で顔を変え、およそ20もの偽名を使いながら逃亡生活を続けることとなった福田和子元受刑者

福田和子元受刑者は松山ホステス殺害事件の犯人である。

松山ホステス殺害事件とは1982年8月に愛媛県松山市のホステスで当時ホステスとして働いていた福田和子が、同僚のナンバーワンホステスに嫉妬し絞殺して山林に埋め殺害した殺人事件である。

「稀代の悪女」と異名がついた悪女 福田和子元受刑者はなぜ逃亡をし続けていたのだろうか。

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テレビで語られない福田和子の壮絶な過去

福田和子が初めての犯罪に手を染めたのは、1966年(昭和41年)18歳の頃。

福田和子は当時、交際し同棲していた男性とともに高松市の国税局長宅に強盗に押し入るという事件を起こした。

国税局長ということもあり、福田和子はすぐ逮捕となる。

逮捕された福田和子が収容されたのが【松山刑務所】。

ここは、今やテレビなどのマスコミで語られることのない「松山刑務所強姦事件」が発生した現場でもある。

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「松山刑務所強姦事件」とは

1964年~1966年に【第1次松山抗争】という暴力団の抗争で大量に逮捕された暴力団組員の受刑者が刑務所内で起こった汚職・強姦事件。

暴力団組員の受刑者は看守を脅し暴行を加え刑務所内の鍵を自分たちのものとし無法化した。

そんな松山刑務所内はバクチや飲酒、喫煙はもちろんのこと、領置金の強奪、さらには女性囚人の強姦を行われた。

なんと看守も暴力団組員の受刑者仲介のもと、女性囚人の関係を持ったものもいたという。

女性囚人は被害届を出すこともできず、ただ泣き寝入りするしかなかった。

実は「松山刑務所強姦事件」の時、福田和子元受刑者はこの松山刑務所に収監されておりこの強姦事件の被害者でもあったのだ。

受刑者は看守から福田和子元受刑者が収監されている房のカギを借りて、福田和子元受刑者を強姦したのだ。

松山刑務所での被害の後、福田和子元受刑者はは高松刑務所へ移監される。

しかし高松刑務所でも受刑者に看守が買収されているという無法地帯であり、福田和子元受刑者は高松刑務所でも受刑者の男性に強姦される被害に遭っている。

福田和子元受刑者は刑務所で2度強姦被害に遭っていたのだ。

「松山刑務所強姦事件」事件発覚後、当時の国会でも取り上げられたが、1966年6月と7月、副看守長2人が自殺。

強姦事件被害者からの告訴もなかったため、事件の真相は闇の中となった。

しかし後に出版された福田和子元受刑者の著書のなかから、法務省が被害者に対し告訴を取り下げる署名を強要していたことが判明。

これは法務省がもみ消しにかかったことを意味している国家を揺るがすよな事件にも関わらず、公訴時効成立という理由から、現在では「松山刑務所強姦事件」の存在自体がなかったことにされている。

多くの人は福田和子元受刑者の逃亡生活から時効直前の逮捕劇をニュースなどで注目していたが、福田和子元受刑者に、このような背景が事実としてあったのを知っている人は少ない。

「無法地帯と化したあの刑務所に二度と戻りたくない」その辛く悲しい思いから15年にも及ぶ逃亡生活をしていたのかもしれない。

福田和子元受刑者の壮絶な過去は、まさに波乱万丈であり、その人生は何度もドラマ化されている。しかしこの強姦事件の被害については未だ多くは語られていない。

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福田和子の長男とは

福田和子には4人子供がいた。

「ママ、用事があって遠くに行くけん、しばらく会えんけんね」

そう言い残した次の日から、子どもたちは祖母の家で暮らすことになり、祖母はテレビを見ないように子どもたちに言った。

あまりに不自然な状況に違和感を感じていたのが福田和子の長男だった。

長男は夜中に皆が寝静まってからテレビを見て母の事件を知ってしまった。

しかし、長男にとって福田和子とは『良い母親』であり犯罪者であろうと『母親』だった。

兄弟が福田和子の逃亡生活の時間と共に疎遠になるなか、長男だけは違った。

長男は福田元受刑者とひそかに再会している。

地方都市のスナックで知り合った男性との内縁の妻になった福田和子と長男と3人での生活を3年間も送っている。

しかし、警察の気配が近づくと福田和子は長男を置きざりにし、逃亡した。

その後、福田和子は時効21日前となる1999年5月31日に約15年の逃亡生活の末、逮捕となった。

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福田和子の長男の現在

福田和子の長男は現在40代。

現在、長男は鉄工所を経営する社長であり、妻子もあり幸せに暮らしているという。

長男の妻も、福田和子の長男であることを知っており、福田和子出所後は、引き取って同居する意思を妻の承諾を得ており、工場の建設で銀行に融資を受ける際も福田和子の長男である事を言っている。

そう、長男にとって福田和子は殺人者ではなく、たった一人のかけがえのない母親だったのだ。

福田和子の裁判の時に長男も出廷し泣きながら「いい母親だ」「母親とはいい思い出しかない」と発言し、その他にも母親を思う息子の気持ちがにじみ出ていたという。

福田和子は時効21日前となる1999年5月31日に逮捕され、その後、2005年3月10日刑務所内にて、くも膜下出血で死亡した。

享年57歳だった。

長男が23歳の時に交際相手を母に紹介したこと、そして逮捕後の面会でのやり取り。

福田和子が亡くなる直前、最後に危篤の知らせを受け、病院に駆けつけた時の思い。

どれもが長男にとって「稀代の悪女」福田和子元受刑者ではなく、優しく愛情を持って育ててくれた「母・福田和子」だったのだろう。

福田和子の遺体は息子が引き取り供養したという。