1974年8月28日、日本で初めてのケースの殺人事件が発生。
ピアノの音がうるさくて殺人事件にまで発展した団地で起こった「ピアノ騒音殺人事件」。
ピアノ騒音殺人事件 序章
1974年7月、大浜松三(46)は団地の階下の音で目を覚ました。
大浜の住んでいる団地の階下に4人家族が引っ越してきたのが、事件のはじまりだった。
4人家族は引っ越してきてから、大浜に挨拶もなく、印象は決していいものではなかった。
大浜は妻と二人で静かに暮らしていたのだが、階下に騒がしい4人家族が越してきてから大浜の生活は大きく変化した。
子供がバタバタと走り回る音、叱る母親の声、子供の鳴き声、窓の開閉・・・大浜にとって全てが耳障りの音や声であった。
日曜になれば、父親が日曜大工のような音が朝から響き渡り大浜にとって安堵の時はあまりなかった。
ピアノ騒音殺人事件 過剰反応の理由
なぜ、大浜はそれほどまでに騒音について過剰なまでに反応していたのか。
その理由は、以前住んでいたアパートで大浜自身が騒音問題を起こした事があったからなのだ。
大浜は音楽が趣味でスピーカーで好きな音楽を聞いているのが唯一の至福の時間であった。
しかし、同じアパートの住人から「音楽の音がうるさい」と苦情を言われたのだ。
当時、大浜も反論したが、結局は加害者。大浜の完敗であった。
それからというもの、大浜は『音』については人一倍気を使い生活していた。
部屋の絨毯には足音が響かないようにマットをひき、ソロソロ歩き、ドアの開閉から物の出し入れ生活音にはとても気を配り、妻にも同様に求めた。
ピアノ騒音殺人事件 凶行の決意
それを無視する階下の家族に大浜の怒りが限界に近づいていた。
階下家族が越してから1年が過ぎ、大浜にとってさらに辛い生活が始まる。
階下の家族がピアノを購入し子供に習わせ始めたのだ。
その練習は朝から晩まで続く。
団地にはピアノに対してのルールはあった「窓は締める」「練習は昼間だけ」しかし当時、ルールを守るものはいなかった。
大浜は団地にいられず、図書館に避難したが、さすがに毎日続くピアノの音に大浜は階下に苦情を言いに行く事にした。
しかし、この時なんと大浜は変人扱いされ気にも留められなかったのだ。
大浜は嫌がらせをされているのではと神経質に拍車がかかり病院に通いだす。
そんな大浜に愛想をつかし妻は実家に帰ってしまい生活がどんどん激変していった。
大浜は凶行を決意する。
1974年8月28日の午前9時10分頃、大浜は階下の一家宅に侵入、ピアノの練習をしていた子供2人(当時それぞれ8歳と4歳)と母親(当時33歳)を殺害。
襖に「迷惑をかけているんだからスミマセンの一言くらい言え。気分の問題だ。来た時アイサツにこないし、しかも馬鹿づらしてガンをとばすとは何事だ」と苦情を書き散らし逃走。
大浜はその後、自殺を試みるが失敗し3日後に出頭し逮捕された。
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ピアノ騒音殺人事件 その後
裁判では大浜を擁護する動きがメディアを通じてあった。
その理由はこの時代、騒音問題が頻繁にあったからだ。
モラルが確立していない時代、騒音に悩まされ精神を病んだものが大勢いたのだ。
妻もこの裁判では弁護台に立ち「ピアノの音は自分も度が過ぎていると感じた。大浜が苦情を言いに行った翌日からさらにひどくなった。大浜が帰宅すると、なぜか急にピアノが弾かれ始める事が度々あった。」と証言。
そんな大浜には願いどおり「死刑」が宣告された。
大浜は無期懲役になるくらいなら死刑がいいと言っていたのだ。
なぜなら「拘置所内の騒音に耐えられず、死にたい」と言っているからなのだ。
しかし現在も大浜の死刑執行はされていない。
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ピアノ騒音殺人事件 まとめ
高度経済成長時代である当時「ピアノ公害」という言葉があったほど、ピアノの騒音被害が問題になっていた。
この事件は社会的にも影響があり、事件を受け、住宅・都市整備公団は床厚を150mmに増やし、アップライトピアノに弱音が取り付けられた。
多くの専門家からは、この事件を「日本人の騒音に対する考え方が劇的に変化した事件」としていた。
騒音は知らずに加害者になっている事もあり、また被害者にもなる問題。
精神に異常をきたすほどの問題であり、たまたま大浜が最初であっただけで、この問題はいつか誰かが問題となるような事態を起こしていた可能性は否定できない。
騒音について、今一度考えるべく、この事件を取り上げた。
そしてこの事件は、今の日本人にとって日本人元来からある、「思いやり」「ねぎらい」などを忘れないよう、教訓とすべき事件。