ディアトロフ峠事件 ロシアの闇、その真相

放射能に晒されほぼ裸の変死体で発見された9人の登山者の遺体。

遺体発見現場へと運ばれた?

恐怖と不安が支配する時代にあった旧ソビエト連邦で起きた事件。

目撃者の証言、機密解除となった記録の数々。

政府が語ろうとしなかった謎の真相とは?

旧ソビエト連邦は厳しい規律と検閲の国だった。

しかし鉄のカーテンが崩壊するとそれまで封印されていたミステリーファイルが徐々に明るみになった。

そこには怪奇現象や未確認生物、邪悪な出来事の数々が記されていた。

中でも興味深く複雑怪奇な事件として名を残すディアトロフ峠事件

トレッキングに出かけた若き登山者グループの全員が遺体で発見された事件だ。

ディアトロフ峠事件の犠牲者は以下。

  • イーゴリ・ディアトロフ:1936年1月13日生まれ。
  • ジナイダ・コルモゴロワ:1937年1月12日生まれ。
  • リュドミラ・ドゥビニナ:1938年5月12日生まれ。
  • アレクサンドル・コレヴァトフ:1934年11月16日生まれ。
  • ルステム・スロボディン:1936年1月11日生まれ。
  • ユーリー・クリヴォニシチェンコ:1935年2月7日生まれ。
  • ユーリー・ドロシェンコ:1938年1月29日生まれ。
  • ニコライ・チボ=ブリニョーリ:1935年7月5日生まれ。
  • セミョーン・ゾロタリョフ:1921年2月2日生まれ。

唯一の生存者

  • ユーリー・ユーディン:1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没。

内側から切り裂かれたテントに散乱した遺体。

数人は裸足、眼球や舌を失っていた者、また遺体から放射線が検出された。

推定死亡時刻頃に奇妙な光を見たと、近くにいた他の登山者が証言。

死因は9人の半数は凍死。残りは重度の内部損傷。本当の死因は?事件の真相とは。

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ディアトロフ峠事件<事件の概要>

1959年1月男性8人と女性2人の計10人のグループがウラル山脈へスノートレッキングに出かけた。

グループのリーダーはイーゴリ・ディアトロフ(彼の名前から事件の名前が付けられた)

経験豊富な登山家だった。

10人全員が同じ大学の学生かすでに卒業したOB でセミョーン・ゾロタリョフだけが他から参加したメンバーだった。

一行が目指したのは登頂困難な山、オトルテン。

『オトルテン』とは『言ってはならぬ』という意味で登山をするにはかなり高いレベルの体力が必要だった。

目的の山に入るために現在のエカチェリンブルグ、当時のスヴェルドロフスクにある大学から下へおよそ640km移動。

順調に進んでいたが、すぐに脱落者が出た。

小屋につくとがユーリー・ユーディンが体調不良を訴えた。

医師の治療が必要だと判断した女性メンバー2人が下山して帰るよう説得した。

ユーリーははからずもメンバーに一生の別れを告げることになってしまった。

残ったメンバーはトレッキングを続行。

悪天候で道が悪かったが順調に前進した。

この時の旅の様子はのちに回収された遺品の日記や写真からわかっている。


Archive photo


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それはとてもトレッキングを楽しんでいる様子であり、写真に映る顔はどれも笑顔だった。

毎晩テントで身を寄せ合いルステム・スロボディンが弾くマンドリンに合わせて歌を歌ったという。

1月30日金曜の夕方、ジナイダ・コルモゴロワが日記を綴っています。

『アウスピア川沿いを歩く。』

夜にはこう書き足している。

『今日は多分、食料庫を作ることになると思う』

これが最後の手記となった。

そして数日後一行を死に至らしめた出来事が起こる。

その夜50km先にいた登山者が空に謎の光を見たと証言している。

複数の丸い光がゆっくり動いていたという。

その光はディアトロフのカメラの最後にも収められていた。

まるで光のオーブを連想させるようなものが写っている。

もちろん単なる現像の失敗という可能性もある。

実は、ウラル山脈では空に浮かぶ謎の光が度々目撃されており、UFO説が取り沙汰されていた。

とはいえ、唯一の物的証拠である日記などに綴られていないことから一行が光を見たかどうかは不明だ。

この夜全員が死亡する。

2月12日に一行は登頂を知らせる電報を送る予定だった。

しかし知らせは届かず数日経っても何の連絡もないことを機に家族や友人からの要請で大掛かりな捜索活動が始まった。

捜索開始から何の収穫もないまま五日、二人の学生が最初の手がかりを発見した。

23日にヘリコプターで現場に降り、25日にスキーの跡を見つけた。

深い雪と凍てつく寒さにもめげず二人はスキーの跡をたどっていった。

そして翌朝、二人は一行のテントを発見した。

真っ先にテントの中に生存者がいるかを確かめた。

テントは崩れていて中には誰もいなかった。ふたたび二人で生存者を探しに行った。

テントは目的地のオトルテンから14km離れた地点で見つかった。

しかもテントがあったのは全く別の山、ホラート・シャフイル山の斜面。

別名『死の山』。

なぜそんなところにいたのか?

さらに不可解なことにテントは内側から切り裂かれていた。


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しかもテントの中には全員の防寒着が残ってたおり、ブーツまで置いてあった。

普通であれば、冬の雪山で服も着ずに外に出るのは自殺行為も同然。

そうまでしても外に出なければいけないほどの恐怖に襲われ逃げだしたのか?

では一体何に怯えていたか?

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ディアトロフ峠事件<雪崩説>

それほどまでに急いで逃げた原因として考えられるのは雪崩。

轟音をたてて向かってくる雪と岩を見て逃げ出したのか。

それならテントが裂かれた理由も納得できるが、雪崩が起きた痕跡はなかった。

さらに雪崩に巻き込まれて死亡したとする説についてはありえない理由としてもう一つ。

テントがあった緩やかな斜面では雪崩は現実的に起こりえないということ。

テントが置かれていたのは18°から20°の斜面で危険な場所とは言えない。

雪崩でないとしても服も着ず荷物を置いたまま逃げ出すほど恐ろしい出来事があったのは確実。

そのような状態であれば彼らが生きている望みはほぼない。

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ディアトロフ峠事件<遺体発見と検死>

そしてテントから1.5キロほど進んだところで救助隊の不安は的中した。

救助隊は雪に埋もれた二人の遺体を発見した。

ユーリー・ドロシェンコとユーリー・クリヴォニシチェンコの2人。


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二人は裸足で手袋もつけず、下着姿のまま並んで倒れていた。

遺体にはアザや外傷はなかった。単なる凍死なのか?

悲劇はまだ終わらなかった。

翌日さらに2人の遺体が発見された。

最初に見つかった2人の遺体の地点からわずか300メートルほど先でグループのリーダーイーゴリ・ディアトロフの遺体が見つかった。

彼も凍死だった。

それからほどなくしてジナイダ・コルモゴロワの遺体も発見された。


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極寒の中、必死の捜索活動が続けられ、その数日後にマンドリンを弾いていたルステム・スロボディンの遺体が見つかった。

この時点で9人中5人が見つかったが、どの遺体にも死因とみられる外傷はなかった。

検死により5人の死因は低体温症であると記録されている。

となれば矛盾脱衣を起こしたのか。

矛盾脱衣とは低体温症による体温感覚の麻痺によって服を脱ぎ捨てる異常行動。

しかし当時、救助に参加した二人は他殺ではないかと述べている。

その理由として、誰かが後から遺体を並べたような作為の跡が感じられたこと。

つまり事故を装った偽装だと。

さらに彼らは捜査内容に違和感を覚え疑問を口にするも当局は取り合ってくれなかったという。

その上彼らは残りの四人を見つけなければならないという急務を抱えていた。

近年の調査ではテント内に残されていた遺品に説明のつかないようなものがあったことが分かっている。

テントの中ではグループの誰の所持品でもないものがいくつも残っていたのだ。

スキーのストックが一本、中国製のランプもあった。

実は登山隊の持ち物リストにこれらは含まれていなかったのだ。

これらは不審物はテントに第三者がいたことを示している。

テント自体にも不審な点があった。

登山隊と救助隊が撮った写真を照合した結果、テントが正しく組み立てられていないことがわかった。

まさに素人仕事といった感じで、イーゴリ・ディアトロフのような熟練者が建てたとは思えない状態だったというのだ。

それが本当なら、テントを建てたのは誰だったのか?他殺か?事件の真相は?

最初の遺体発見から2ヶ月後の1959年5月5日。

残りの遺体が発見された。

最初の遺体からわずか70メートルの場所ながら深い雪の下に埋もれていた。

その姿は悲惨だった。

四人の遺体はどれも激しく損傷しており、車に跳ねられたのかと思えるほど大きな外傷がいくつも確認されました。

リュドミラ・ドゥビニナの遺体は、小川沿いで岩らしきものに持たれ、

舌と眼球を失っているのに加えて鼻の軟骨が完全に潰れてしまっており、まるで顔を思い切り殴られたかのように鼻全体にかなりの衝撃を受けていた。

しかも胃に残っていた血液状態から、リュドミラ・ドゥビニナは生きたままの状態で舌を失ったとされた。


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ディアトロフ峠事件<動物説>

これらの外傷は死後2ヶ月の間におった可能性もある。

例えば動物に食い荒らされたなどだ。

しかし、さらなる不審点が見つかる。

リュドミラ・ドゥビニナは靴を履いておらず、両足には先に死んだ仲間のものであると思われる服の切れ端が巻き付いていた。

さらに上着からは放射線までもが検出されたのだ。

当時この事件の調査を率いていたのは犯罪課に所属するレフイワノフ捜査官。

調査の一環として彼は遺体と現場周辺の放射線量を測定することを決める。

しかし登山不明者の捜索で放射線量を測るなんて普通はせず、レフイワノフ捜査官の行動は明らかに指示されたものだ。

では日本の登山者がなぜ放射線にさらされることになったのか?

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遺体は後にエカチェリンブルグと改名された当時のスヴェルドロフスクに埋葬され慰霊碑も建てられました。

死因審問は1959年5月に公式に終了し「犯人はいない」と結論づけ、調査は打ち切られたが、1980年代後半に調査が再開。

ゴルバチョフ政権が打ち出した情報公開政策の施行により、多くの機密記録や遺品が死者を悼んで設立された記念財団に公開されたのです。

それでも多くの情報が欠けている言われている。

その一つとして後に見つかった損傷が激しかったメンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていなかったこと。

さらに公開された情報には不審な点があった。

調書の表紙の日付。

これによると調査開始は1959年2月6日となっているが、これは事件発覚の一週間前の日付。

それ以外にも重要と思われる情報が欠けており真相解明は容易ではない。

ここ数年で様々な情報が明らかになった一方であまりにも不可解な事件のために誰も謎を解く鍵を見極められずにいる。

軍が関わっているのならなおさらです。

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ディアトロフ峠事件<スパイ説>

メンバーの身辺調査から危険な機密調査に関わって死亡したとするスパイ活動説も浮上した。

登山隊の中には社会人のものもおり中でもアレクサンドル・コレヴァトフは原子力施設で働いていた。

アレクサンドル・コレヴァトフは原子力製品や原子力機器の製造に関わっていたのだ。

さらに最年長のセミョーン・ゾロタリョフは元軍人であることもわかった。

唯一の生存者であるユーリー・ユーディンが入手した証拠によるとセミョーン・ゾロタリョフはある諜報機関のメンバーだったのだ。

彼が二重スパイであった可能性は否定できなくなった。

仮説ではあるが、アレクサンドル・コレヴァトフとセミョーン・ゾロタリョフの二人が放射性物質をどこかの外国勢力に運んでおり引き渡しの直後、口封じのため全員が殺害された、とは。

しかしこれを強引と言える説だと唱えるものもいる。

町の通りで落ち合いば手っ取り早いのにわざわざ雪山で取引をしないというもの。

ではこれらの事実は偶然だったのか。

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ディアトロフ峠事件<UFO説>

事件後に浮上した様々な説の中には空に浮かぶ光を鍵とするものもある。

その正体として挙げられているもの、それはUFO。

調査を率いた捜査官は町の警察官に過ぎないが、彼らは死の床でUFOの関与を断言している。

このUFO説より、他の研究者たちは、より現実的な説を展開している。

空に浮かんでいた光とメンバー2人が負った怪我の状態から軍が関与した可能性を疑っている。

検視結果を見て私が真っ先に思ったのは何らかの爆発に巻き込まれた可能性です。

しかも通常の爆弾による爆発ではありません。

もしそうなら飛んできた破片や石などでたくさん外傷を負うはずですから。

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ディアトロフ峠事件<軍の爆弾実験説>

パラシュート爆弾の軍の爆弾実験が山で行われていたとという説。

一度の爆発でおよそ30から60メートル圏内を一掃するだけの破壊力を持ち、離れていても被害は免れない。

このパラシュート爆弾の被害は肺が破裂し鼓膜が破れるなど、外傷ではなく激しい内部損傷を与える爆弾だ。

情報を調査している者の中には軍事資料や元軍人から情報収集し、この説が有力とも言われている。

事件当日も夜、二機の爆撃機のウラル山脈の北へ飛んでいることが確認できており、さらに乗員の一人が現場周辺にパラシュート爆弾を投下したと証言しているのだ。

この説を裏付ける証拠が最近になって遺体現場付近から発見されている。

偶然にしてはできすぎです。

若き9人の登山隊員が不運にも爆弾の投下実験に巻き込まれ不慮の事故で死亡したという説はありそうな話だ。

ただこの説にはまだ続きがある。

ソ連軍が大規模な隠蔽工作に関わった可能性というのはあるだろうか?

遺体の発見現場で死亡したとは思えない。おそらく2キロほど離れた場所で命を落とし運ばれたのではないだろうか。

殺人の事実を何とか隠蔽しようとしたのではと考えるとどうか?

唯一死因として利用できたのが低体温症であり、テントで発見された謎の遺留品についても同様に隠蔽工作だったということにも合点がいく。

経験者からなる登山隊がルートを大きく外れたで別の山で発見され、テントの立て方もを間違っていた。

テントは軍が不祥事を悟られないために遺体と一緒に事故現場から運んできた可能性も考えられる。

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事件発生から50年以上経った現在まで様々な説が出ましたが謎は解けないままだ。

あまりにも証拠に矛盾点が多すぎるため事件解決の糸口にならず、まるで事件を複雑難解にし捜査を乱すか操作されているようだと、唯一の生存者ユーリー・ユーディンは語り、亡くなる2013年頃まで手がかりを探していたという。

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