連続企業爆破テロの真実とサイドストーリー

連続企業爆破テロ三菱重工爆破事件

昭和49年8月30日昼過ぎ、東京・丸の内にある三菱重工ビルの正面玄関前に仕掛けられていた時限爆弾が爆発。

この爆破で三菱重工ビルはもとより、近隣のビルの窓ガラスが破壊され、昼に外食で歩いていたサラリーマン、OLらは空から降ってくるガラスの破片で重軽傷を負った。

三菱重工ビル内にいた社員も、爆風や破壊されたガラスで死亡するなどビル内は血の海と化した。

現場検証及びその後の調査で、この時限装置付きの爆弾はペール缶2個に40キログラムの容量が入った爆薬だった。

ダイナマイトおよそ七百本分という爆弾の威力は凄まじく、一帯は、さながら激しい空爆を受けたように惨状を呈し、 窓ガラスが吹き飛び、柱は曲がり、コンクリート片が路上に突き刺さった。

死者八名、重軽傷者三百七十六名を出したこの三菱重工爆破事件で、丸の内仲通りに面した企業ビルの窓ガラスは、四千枚も砕け散った。

8人の死者

51歳の三菱重工主任- 病院収容後翌日死亡

41歳のデザイン会社役員- 脱血ショックで病院収容後に死亡

38歳のメーカー所長代理- 静岡県から商談のため訪問し、地下食堂から出たところ巻き込まれ即死

23歳の会計士事務所事務員- 脳損傷と全身打撲で病院収容後死亡

37歳の三菱信託銀行課長- 即死

28歳の船舶エンジニア- 即死

49歳の鉱業会社社員- 即死

50歳の三菱重工社員- 即死

連続企業爆破テロ東アジア反日武装戦線

爆破事件から一ヶ月後、「東アジア反日武装戦線」が反抗声明が発表される。

犯行声明(全文)一九七四年八月三〇日三菱爆破=ダイヤモンド作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線“狼”である。

三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である。

今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である。

“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。

彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。

“狼”は、日帝中枢地区を間断なき戦場と化す。

戦死を恐れぬ日帝の寄生虫以外は速やかに同地区より撤退せよ。

“狼”は、日帝本国内、及び世界の反日帝闘争に起ち上がっている人民に依拠し、日帝の政治・経済の中枢部を徐々に侵食し、破壊する。

また『新大東亜共栄圏』に向かって再び策動する帝国主義者=植民地主義者を処刑する。

最後に三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に警告する。

海外での活動を全て停止せよ。

海外資産を整理し、『発展途上国』に於ける資産は全て放棄せよ。

この警告に従うことが、これ以上に戦死者を増やさぬ唯一の道である。

9月23日東アジア反日武装戦線“狼”情報部

東アジア反日武装戦線は斉藤和(都立大学中退)と友人の佐々木則夫が昭和46年に結成。

《アジアの発展途上国に進出する 日本企業を日本帝国主義の走狗》としアジアや南米など発展途上国に進出する日本企業を攻撃することを目的とした「新左翼」の集団であった。

東アジア反日武装戦線の組織は『狼』、『さそり』、『大地の牙』の3グループに編成され、メンバーが逮捕された場合は青酸カリで自決するように指示されていた。

三菱重工ビル爆破を実行したのは『狼』。

実行犯は佐々木則夫、大道寺将司、大道寺あや子、益永利明の4人であった。

昭和50年5月19日、警視庁公安部はアジア反日武装戦線の幹部7人を都内のアパートに潜伏しているところを逮捕した。

『狼=佐々木則夫、大道寺将司、大道寺あや子、益永利明』、『大地の牙=斉藤和、浴田由紀子』、『さそり=黒川芳正』。この内、公安の取り調べで、三菱重工ビル爆破以外に三井物産(大地の牙)、帝人中央研究所(狼)、大成建設(大地の牙)、同月23日に鹿島建設(さそり)などの連続爆破テロもアジア反日武装戦線の犯行であることが判明。

その後、昭和50年8月4日、日本赤軍の西川純、日高敏彦ら5人がマレーシアのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠し日本政治犯の釈放を要求。

指名された8人のうち 佐々木則夫を含む5人が 超法規的措置で釈放され日本赤軍に合流した。

さらに52年9月28日、日本赤軍の日航ハイジャック(ダッカ事件)で大道寺あや子、浴田由紀子ら6人が同じく超法規的措置で釈放され日本赤軍に合流した。

残った大道寺将司、益永利明は昭和53年11月12日、東京地裁で死刑判決。

黒川芳正に無期懲役が言い渡された。

「超法規的措置」で釈放したのはテロに屈したことを意味し国際社会から非難の声が高まった。

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連続企業爆破テロ三菱重工爆破事件のサイドストーリー

1970年代の極左暴力集団の中には「東アジア反日武装戦線」と同じく爆発物によるテロを実行したものが多かったが、なかにはメディアでの事件報道に憧れを抱く「爆弾マニア」による模倣犯も多く出ており、逮捕者の中には悪戯のためにコインロッカーを爆破した中学生がいた。

過激派の中には爆発物による誤爆事故を起こしたものもおり、1975年9月4日深夜に横須賀市のアパートで消火器爆弾製造中に爆発事故を起こしアパートが全壊、中核派メンバーの男女3人のほか、住民2人の計5人が死亡、8人が重軽傷を負う「横須賀緑荘誤爆事件」が発生している。

同派は、この事件の後、一時爆弾闘争を中断していたが、1985年1月から再開し、小型マイクロバスを跡形もなく大破させる威力を持つ「圧力釜爆弾」や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾を使用するようになった。

また犯行グループに対する控訴審判決が予定されていた1982年10月29日に、当時銀座にあった東京南部小包集中局(1990年廃止)内の小包に隠されていた時限式消火器爆弾が集配所で爆発。

取り扱っていた郵便車の運転手の左腕の肘から先が吹き飛ばされ、運転手助手も内臓破裂と全身打撲の重傷を負った事件があった。

この事件に対し警察は遺留物から「反日武装」の文字が書かれた紙片が発見されたことから、被告人らに同調する極左テロリストによる犯行として捜査した。しかし未だ犯人を特定できておらず 未解決事件となっている。

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1970年代初めから、ある種の流行のように使用された時限爆弾。現代の日本においてはそういった事件は少なく、現在のイスラム国などは対岸の火事のようにすら感じる。

しかしイスラム国が日本も敵国と指名してきている以上、常に防弾チョッキを身につけろ、という事ではなく、こういった爆破テロの予備知識を少し持つだけで、事件が起こった時のリスクは軽減される事を理解頂きたい。

その良い例がガラス企業ではないだろうか。

今回の事件での負傷者が最も多かったのが、割れたガラスの落下による負傷である。

この事件を受け、現在ではガラスの強度も向上し、高層ビル向けのすぐに落下しないようなガラスの研究が進むなど時代を経て安全面での向上につながった。