保険金目当実母殺人事件そのサイドストーリーとは

保険金目当てとして実の母を家族で殺害するという類をみない史上最悪の殺人事件。

まずは殺人事件の概要から

保険金目当実母殺人事件 概要

1971年1月12日愛媛県伊予郡に住む金融業 立川修二郎(当時40歳)は、姉 里子(当時41歳)と共謀し、コンクリート片で殴るなどして実母を殺害。

その後、交通事故を装って母親にかけていた多額の保険金を騙し取る。

配分は以下の通り。

立川修二郎約4000万円
姉 里子約350万円
兄 伝一郎約60万円

主犯格 立川修二郎とは

立川修二郎は金融業の傍ら、1969年初めごろから無免許で不動産仲介業を営んでいたが、客から土地購入代金として預かっていた1600万円のうち1200万円を使い込んでいた。

この客がこの件で警察に訴え、1970年4月30日立川修二郎は 横領罪で逮捕されている。

立川修二郎は、横領で逮捕される前、本事件の要因となる実母に多額の保険金をかけていた。

立川修二郎は、逮捕後の第3回公判中に自分名義の土地と建物を処分するまで次の公判を伸ばしてもらえるように訴えていた。

検察官や裁判所は、これを了承。

そして、母親の事故後の1971年1月21日の公判で返済の意向を示し2月24日に弁護人が保険金請求を代行。

1971年4月25日松山地裁で懲役1年6ヶ月 執行猶予5年の有罪判決を受けた。

立川修二郎は1971年11月から松山市でクラブを始めたが経営は思わしくなかった。

立川修二郎はそのころに1人目の妻、S子と 結婚したが離婚、その後に別の女と再婚をするがまた離婚。そして、最初の妻、S子と再々婚していた。

しかし立川修二郎はS子と頻繁に喧嘩していたといい、1972年5月21日にS子は松山東署に駆け込み傷害容疑で立川を訴えていた。

松山東署は、告訴を受理するも後にS子が告訴を取り下げた。

1972年7月1日夜、松原市桑原町のマンションで鍛冶屋の兄伝一郎(当時48歳)と共謀し実母殺しを目撃したS子(当時34歳)を口封じのため殺害。

翌日にその死体を松前町にある兄の鍛冶場に埋め失踪を偽装していた。

行方がわからなくなったS子に実家の親族から捜索願が出された。

同時に、保険金殺害を疑っていた警察は、慎重な捜査を続けた。

1974年11月25日警察は、母親の頭を殴った傷害致死容疑で立川修二郎と姉を逮捕した。

そして同月27日には、兄の鍛冶場の土間からS子の白骨死体を発見、兄が自供し逮捕された。

1974年12月21日姉が全面自供する。

立川修二郎は、妻の殺害は認めたものの、母親の殺害については否認した。

警察は 立川修二郎に対し、実母と妻の殺害に関して別々の事件として立件し 起訴していた。

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保険金目当実母殺人事件 判決

1976年2月18日<松山地裁は、立川修二郎に 実母殺害と妻殺害に関してそれぞれ 求刑通り死刑判決。

1979年12月18日高松地裁は実母殺害に関しては死刑、妻殺害に関して無期懲役。

1981年6月26日最高裁は二審判決を支持し、実母殺害に関して死刑、妻殺害に関して無期懲役が 確定。

1993年3月26日立川修二郎の死刑執行。

62歳没姉 里子には求刑通り懲役15年の判決が言い渡され、里子は控訴したが、後に取り下げ 刑が確定。

兄 伝一郎には求刑通り懲役15年の判決を言い渡した。

伝一郎は控訴せず 刑が確定。

姉の里子や兄の伝一郎は懲役15年という事でもう出所しているものと思われる。

現在はどのように考え今日を生活しているのか。

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保険金目当実母殺人事件 サイドストーリー

実はこの事件の前の死刑執行から3年4か月間、死刑執行が完全に止まっていた。

日数にして実に1231日。

この空白期間1231日は“死刑モラトリアム”とも呼ばれ、死刑制度に反対する市民団体などの間では「このまま日本でも死刑が廃止されるのではないか」と期待が高まっていた。

そんな中での死刑確定は当時反対派にとって意味深いものとなった。

今回の保険金目当実母殺人事件にも影響を与えたサイドストーリーとして紹介する。

家族全員がクリスチャンであったという一家の悲しい殺人事件。

家族の絆というものを改めて考えさせられる事件であった。